第2回日本理学療法士学会
大会テーマ「整形外科のPTを中心として」
第2回学会の回想
今回第10回学会を迎え、記念行事の一環として、第2回学会の回想をとの依頼があり、思い出すままにつづることに致します。
協会設立後いまだ日も浅い昭和41年9月だったと思いますが、第1回研修会が東大病院で開催されました。その節「第2回は大阪で」との指名を受け、当時会員数の面からいっても当然だったと思い、受けることにしました。
当時私は大阪大学附属病院に勤務していてすでに大阪を中心とした近畿地区で資格取得者による集談会が行われていたので、これを母体に、中心的役割をしていた浅野君、武富君および西本君等よき協力者というよりやってくれる会員が多数いたので、彼等を主体に準備に入ったのです。まず会期に昭和42年6月としました。これは新たに合格された方々が入会に便利で、かつ会員増しで会の運営が行える点を考えてのことです。ところが昭和42年2月頃になり、大阪大学整形外科の水野祥太郎教授(現川崎医大学長)より「いつまで研修会をやっているのだ、学会にしろ」とのアドバイスがあり、急遽学会に変更することにしたのですが、時期的にみて演題の募集が困難であり、また資金面にも問題が生じたのです。
そこで前者は集談会に出題されたもののなかで補足可能なもの数題を依頼、それに後藤君(今学会長)がたまたまイタリアより技術交換の外遊からの帰国土産話を願い、遠藤会長および武富君がWCPT総会がシドニーで開催されたのに日本PT協会代表としてオブザーバーで参加帰国直後になるので、この報告会を組み、医師の特別講演と医療機械業者で本会の特別会員として入会している会社の自社製品紹介と質疑応答を加え、一応学会としてのプログラムを編成したのです。
後者の資金面では前記の在阪特別会員会社に集合願い、率直に予算案を提示、援助方を依頼したところ、全面協力を確約して戴き、河村医療社長が世話役をかって下さって、この面でも比較的スムーズに話がつき、学会の準備も順調にはかどった次第です。
次に学会としての開会式の祝辞の問題で、水野教授の援助で日本整形外科学会長および日本リハビリテーション学会長の祝辞と後援というタイトルを戴くことが可能となりました。
以上の経過で無事学会を終了した次第です。その間先にも述べた通り大阪士会員がそれぞれの分野で活躍、私の出る必要はなかったです。それは第8回学会を見て戴ければおわかりのことと思います。このように学会は恵まれ過ぎたため、総会の運営面での不手際のため、十分討議が行われないまま時間切れとなり、参加会員の皆様に大変不快の変を与えた点、当時副会長の職にあった私といたしましておわびの申しようもない次第です。以上、思い出すままの抽文で失礼しました。
(第2回学会長 岩本 敬)
※本記事は10年史(日本理学療法士協会発行)からの転載です。
大阪府理学療法士会からのメッセージ 思い出レポートを年ごとに見る